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目には青葉山時鳥(やまほととぎす)......

post: 2012年5月 3日 12:05 PM

目には青葉山時鳥(やまほととぎす)初松魚(はつがつお)

山口素堂の有名な俳句ですが、まさに、箱根はその季節を迎えております。

新緑のかもしだす、すがすがしい空気と景色、耳をすますと、あちこちから、山時鳥や野鳥のさえずりが聴こえ、大自然に癒されます。

GWゆったりとした休日を過ごしに強羅温泉へおこしください♪

 

新緑 もみじ.jpg

 

5/3道路情報 箱根全山開通

post: 2012年5月 3日 11:24 AM

5/2から降り続いた雨のため、5/3午前10時ごろまで、通行止め、鉄道各線やバスが運休となっておりましたが、午前11時現在、運転再開となり全山開通いたしました。

お車や鉄道、バス、などで、箱根観光可能です。

※5/3 11時現在 ロープウエイ、観光船は運休しております。

箱根町内の交通情報は下記URLをご覧ください。

http://www.town.hakone.kanagawa.jp/hakone_j/info/traffic_information.html

 

また、箱根町内の美術館、商店、飲食店、など各施設も通常どおり営業しております。

5/4にはお天気回復のようです。

皆様のお越しをお待ちしております。

 

登山電車と強羅の桜

post: 2012年4月13日 01:54 PM

強羅駅の桜風景

PICT1416.JPGのサムネール画像

強羅温泉桜便り

post: 2012年4月13日 10:00 AM

強羅の桜が見ごろとなりました。

強羅の桜.jpgのサムネール画像

あちこちで、桜がみられます。

大平台の枝垂れ桜や、

宮城野、強羅辺りは満開です。

 

宮城野の川沿いでは、夜桜で宴会をされる方の姿もみられました。

昼間に、桜を眺めながら、お弁当を食べるのも良いですね。

 

 

 

 

 

 

 

120413_1011~02.jpg

見上げて見る桜も綺麗ですが、足元もご覧ください。

強羅付近の桜の老木です。

 

根っこの辺りで咲いている桜に生命力を感じ、優しい気持ちになりました。

 

 

 

cherryblossom 強羅温泉旅館組合のホームページでも最新情報公開中

http://hakone-gora.com/ryokumi/ ぜひご覧くださいheart04 

強羅温泉 花の催事情報

post: 2012年4月 9日 11:08 AM

強羅温泉の桜開花は今週末辺りでしょうか......

ソメイヨシノはまださかないので、強羅公園のサクラ草やトキソウに癒されてください。

サクラソウの花言葉は希望clover・青春の始まりと終わりだそうです。

トキソウの花言葉は、控えめ、幻の愛heart04だそうです。

強羅公園催事情報のURLはこちらnote

http://www.hakone-tozan.co.jp/gorapark/special/index.html

春蘭

post: 2012年3月30日 02:25 PM

 

image00.jpg

箱根美術館に春蘭が咲いていました。

ふきのとうのように、春を知らせてくれる花です。

可憐で優しい色合いの春蘭は、春の草にまぎれているので、よく探さないと、見過ごしてしまいます。

目をこらし、春を探しにきてくださいね。

つくしや、よもぎ、あせび・・・・日ごとに膨らむ木々の新芽、花芽など・・・・自然は春の訪れを知らせてくれています。

桜の開花が待ち遠しいですねcherryblossom

 

 箱根美術館   http://www.moaart.or.jp/hakone/

強羅の歴史強羅の夜明け

post: 2012年2月26日 01:09 PM
"強羅"という地名を初めて見た時、皆様はすぐに"ごうら"と読めましたか?

初めてこの地名を目にした人は"きょうら"とか、「一体なんて読めばいいの?」と聞かれることがよくあります。慣れ親しんでいる私たちには普通ですが、大変めずらしい地名であることには変わりありません。この"強羅"という地名はどのようにして付けられたのでしょうか?




"強羅"の地名の由来は次のような説が伝えられています。

>>
早雲地獄からの土石流が崩れ落ちた斜面上の地形であるから大きな石がゴロゴロとした景観からゴロゴロが訛ってゴーラになった説

>>
強羅は原野に無数の大石が目立って散在しているので、梵語の「石の地獄」という意味のあることば「ゴーラ」からつけられた説

>>
強羅の地盤は非常に固く、亀の甲羅のようであるというところから甲羅が訛ってゴウラになった説



などいろいろな説が伝えられておりますが、どれが正しいのかは定かではありません。
しかし、どれもこの強羅の地盤が固く、岩が多いという地形の特徴を表しています。この地形の形成は神山噴火初期の土石流堆積物の上に火山性堆積物、火山灰、早雲山からの泥流堆積物が重なり形成されております。このような火山性堆積物に覆われた原野に人間の手が加えられ開発が始まりました。




ではこのような荒地に実際に開発が始まったのはいつのころからでしょうか?もともと強羅は当時の宮城野村の所有地で明治21年に底倉(宮ノ下)の梅屋旅館、鈴木麻牧太郎氏に売却されました。鈴木氏に売却された土地は現在のケーブルカー線の南側(左側)で、明治44年小田原電気鉄道(株)(現在の箱根登山鉄道(株))に譲渡するまでの間、小田原電気鉄道沿革概要によると

• 平松甚四郎(東京都日本橋区)
• 山脇 善助(東京都京橋区)
• 香川 泰一(東京都小石川区)
• 高橋 秀松ほか20名共有と所有者が変わっていきました。


鈴木氏に売却された頃の強羅の様子は史跡などの名所は特になく、山桜などの潅木林、山百合などが生い茂る雑木林であり、巨岩がかしこに見られる土地でありました。
農地として利用するには程遠く、現在のケーブルカー線の北側(右側)は向山と称し、宮城野村の人々が茅場として出入りしていたぐらいであろうと言われております。
開発など、全く手が付けられておらず、平松氏所有時代に早雲山噴煙口から上強羅(現在の早雲山駅付近)へ温泉を引湯したのが唯一の開発といえるものと言われています。




その後この荒地強羅の将来性に着目し、強羅開発に心血を注ごうと人物が現れました。
それが東京で酒問屋を営んでいた山脇善助氏です。山脇氏は宮城野−強羅−早雲山をつなぐ道路の開拓、早雲山より温泉を引いて大浴場を建設して、この地を一大温泉郷にするという壮大な計画を立てて工事に着手しました。
大掛かりな工事でしたので、当時の宮城野は工事人や職人が多く入り込んでかなりの賑わいであったと言われております。しかし、長く資金が続かず、二年ほどで工事は中止されました。
残念ながら山脇氏の壮大な計画は途中で敢え無く中止となりました。しかし前人未到の強羅開発の扉を開いた、氏の勇気と情熱は、現在の強羅の礎になっていると思います。



山脇氏の計画はその後、香川氏、高橋氏他に受け継がれて、早雲山や大涌谷からの引き湯、旅館の開業、宮城野−強羅−早雲山をつなぐ道路の開通などで温泉郷としての土台が作られ、明治45年の小田原電気鉄道の温泉付別荘地としての土地分譲開発へ続きました。

この明治21年から明治44年までが強羅開発のはじまりで、
まさに"強羅の夜明け"といって過言では無いでしょう。


強羅の歴史強羅のあゆみ

post: 2012年2月26日 12:09 PM

明治21年に最初の開発がなされてから20年余り、現在の強羅の町並みに大きな影響を残している、温泉付別荘地としての土地分譲は明治45年に小田原電気鉄道(株)(現在の箱根登山鉄道(株))によって始まりました。



大正時代の強羅全景 

箱根登山鉄道の開通を含む別荘地開発は、当時の財界人の一人である三井物産の創立者である益田 孝氏が開発に早くから係っていると言われております。

現在の強羅の強羅公園を中心とした町並みはこの別荘地分譲によって作られたもので、この町並みは益田孝氏自身の何度もの欧米視察により身についた自然主義感が大きく影響し、実質的な設計は海外の事情に明るい益田孝氏の末弟の益田英作氏と強羅公園を設計した一色七五郎氏であると考えられています。住宅地の中心に公園を配置するこのような町並みはヨーロッパにおいては19世紀の半ば以降盛んになり、日本では明治40年頃から見受けられ、このような強羅の開発は日本の中でも最も早い一例に数えることができると言われております。

分譲された土地は小田原電気鉄道が所有する36万8,000坪余りの内、約4割の15万坪の広さをもっていました。分譲地は現在のケーブルカー線の南側(左側)で、基盤目状に整然と区画された分譲地は148画と分かれ、1区画毎に温泉と水道付で売り出されていました。1区画の大きさは最高1,128坪、最低78坪、平均400〜500坪でありました。




購入者は益田氏、小田原電気鉄道(株)の当時の社長であった草郷清四郎氏の二人を中心に、それらの人脈的な繋がりで構成されており、当時の政財界を代表する人々が別荘を持ち、別荘地としてのステイタスを高めていました。
強羅別荘地は、当時の数奇者達を中心とした文化村的な性格を帯びていたと言うことができ、その中心は益田氏と草郷氏の二人であったと思われます。

一方、隣地の向山(ケーブルカー線北側(右側))も宮城野村の共有地でありましたが、明治38年頃全域を村民に無償で割地して分割し、各自の所有としました。その後、大正8年堤康次郎氏が約10万坪買収し、翌9年に箱根土地(株)を設立し、別荘地として分譲されました。この二つの別荘分譲がまさに現在の強羅の街並みの基礎と言えるでしょう。



以下に当時の代表的な所有者と別荘について紹介いたします。

益田 孝
三井物産会社の創立者であり、小田原電気鉄道(株)(現在の箱根登山鉄道(株))の登山線の敷設、強羅別荘地開発という大事業に尽力を尽くしました。また当時の別荘購入者は益田孝氏を中心とした人脈で構成されていました。

白雲洞 
近代三大茶人としても有名な益田孝氏によって作られ、当時、近代数奇者茶人の間に流行した『田舎屋の席』の貴重な作例で、山村農村の古材の持ち味を生かしながら、八畳敷の茶室を構成しています。現在は強羅公園の中にあり見学することができます。また、平成13年には国登録有形文化財に指定されました。

藤山雷太
藤山雷太氏は慶応義塾で福沢諭吉に学び、卒業後、26歳の若さで故郷長崎県会議員になりました。その後、実業界に転じ三井銀行を始め、芝浦製作所長、王子製紙専務、大日本精糖社長に就任しました。のちには保険、銀行、鉄道などの事業にも手を広げ、やがて日本商工会議所初代会頭を勤めた財界の大物でした。

神山荘玄関
彼がこの地に別荘を構えたのは、大正10年頃のことです。
木造平屋建てで懸造り、庭園は一色七五郎氏の設計と伝えられています。建物は洋館とかやぶき屋根の日本家屋とが一緒になった構造で、玄関の右側は洋館として食堂、応接室がありました。左側の日本家屋は高低のある地形を生かし、一番奥に『上の間』、一段下がって『中の間』、さらに下がって数奇屋風の『花の間』を配し、それぞれを廊下で結ぶ構造となっていました。雷太氏の死後、息子愛一郎氏の所有となりましたが、世界救世教教祖岡田茂吉氏によって大切に保存されております。また、平成13年には国登録有形文化財に指定されました。

岩崎康弥
岩崎康弥氏は三菱会社初代社長岩崎弥太郎氏の三男です。英国に留学後、東京毛布(株)取締役を務めました。彼が強羅分譲地を購入(七区画分)したのは大正4年からで、まもなく木造2階建ての日本家屋を別荘として建築しました。康弥氏自身、避暑によくこの別荘を利用しており、また昭和3年夏に避暑のためにここに岩崎別荘に滞在した閑院宮殿下は強羅を大変お気に入り、岩崎邸の敷地半分を譲り受け、同5年に別荘を建築しております。

岩崎康弥荘別邸 
建物は玄関脇に洋間を置き、中庭を口ノ字の配置が取られています。座敷は南側に2棟置かれ、書院風の趣がありました。昭和23年、鈴木家がこの岩崎別荘を買収し、翌24年に強羅環翠楼(旅館)として開業いたしました。東側庭園に面した2階建て本館部分は岩崎邸当時の建物で、当時の面影が偲ばれます。

閑院宮載仁親王
閑院宮は、江戸期作られた宮家で、四宮家の一つです。
明治以降に創られた多くの宮家とは違い深い由緒を持っています。しかし、戦後に皇籍を離れ、さらに昭和63年に7代の春仁氏が長逝され、跡を継ぐ男子がなく家名は途絶えました。閑院宮載仁親王は、伏見家に生まれ、明治5年に閑院宮後嗣となり同家を再興いたしました。大正元年に陸軍騎兵隊の大将、同8年には元帥となり、昭和6年から15年にかけて陸軍参謀総長を務めておられます。

閑院宮載仁親王の本邸は東京の永田町にあり、別邸として小田原の天神山に広壮な洋館を建てております。その後、昭和3年に避暑で強羅の岩崎別荘に来て、その縁で岩崎康弥氏から敷地を譲り受けて工事を開始し、昭和5年に別荘が完成しました。設計は陸軍技師柳井平八で施工は松村組が担当したと言われております。

建物は"ハーフティンバー"と言われる木造の梁や柱が外観に出ている西洋の木造建築で、華麗なる外観を持つ洋館です。現在は(株)強羅花壇の所有で、懐石料理『花壇』として営業し、当時の雰囲気を偲ばせています。

福原有信
福原有信氏は資生堂の創業者で、漢方医の祖父の影響を受け、17才のときに江戸に出て医学を修めました。海軍病院薬局長を経て、資生堂薬舗会社を開業しました。
一方で、帝国生命保険の社長として保険思想の普及と事業拡大にも貢献しました。

福原家別邸は有信氏の三男信三氏(資生堂初代社長)が、父のために世界的に有名な建築家フランク・L・ライト(旧帝国ホテル設計者)に設計依頼をし、竣工されました。フランク・L・ライトは、その生涯に800件以上という数の設計を残していますが、母国アメリカ合衆国以外での業績が極めて少なく、計画案に終わった設計を含めても、その数は32件です。

しかも実現した建築となると、カナダに3件、日本に6件のわずか9件を残しているのみなのです。カナダでの実績が今や現存していませんので、日本はアメリカ以外でライトの作品に触れることのできる唯一の国ということになります。

ライト氏自信も建築中の強羅に足を運び、直接施工管理にあたりました。別荘は1921年(大正10年)頃に建てられたと言われており、ゲストハウスとしても利用されていました。しかしながら直後の1923年9月関東大震災に見舞われ、崩壊、消滅してしまいました。震災当日、有信氏は別荘で静養中でしたが、手を一部負傷したが無事であったことが確認されております。ライト設計の別荘はわずか2、3年で短命であったわけですが、現在も現存していれば地元強羅においても大きな観光財産となったに違いありません。

斉藤茂吉
斉藤茂吉氏は山形県金瓶村、現在の上山市出身の医師で歌人です。
「アララギ」創刊の中心メンバーで、31歳で「赤光」を出版、一躍注目を浴びました。医師で評論家の茂太氏は長男、作家の北杜夫氏は次男です。

別荘は現存しておりませんが、自ら箱根山荘の勉強部屋と称した書斎『童馬山房書屋』は斉藤茂吉氏の生誕の地山形県上山市の『斉藤茂吉記念館』に移設され、当時を偲ばせてくれます。また茂吉氏自身も夏は強羅に滞在し、執筆活動は勿論、地元の人々との交流も盛んであったようです。箱根で詠まれた歌は1,200首にも及び、その中の秀歌1首が強羅公園内に碑として建立されております。刻まれている筆跡は茂吉自身の直筆です。




この他にも福沢桃介氏、星 一氏、梅岡源太郎氏、志賀直温氏、久米民之助氏、三井高善氏など当時の財界のそうそうたるメンバーが購入者として名を残しております。

また強羅地域の開発も
• 大正3年 強羅園(現在の強羅公園)の開園
• 大正8年 箱根登山鉄道開通
• 大正10年 ケーブル線開通

と整備され、一大温泉郷として形成されました。


強羅の歴史強羅の発展

post: 2012年2月26日 11:09 AM
駅前広場と強羅駅
現在においても前頁で紹介した街づくりは色濃く残っており、当時の雰囲気は今でも観光にいらっしゃるお客様にやすらぎと懐かしさを与えてくれております。
また別荘に来る人のために、旅館や商店を生業とする人たちも多く入り、街として大きく発展いたしました。

大戦後の強羅橋
後に劇作家として有名な北条秀司氏は昭和の始めには箱根登山鉄道の社員として強羅開発にお力を注ぎ、内外に大きくPRしていただき、強羅をこよなく愛していただきました。
また、『東京音頭』で有名な西条八十氏、中山晋平氏コンビは、強羅によく滞在いただき、その縁で『強羅音頭(おどり)』を作っていただきました。強羅はさまざまな人に愛され、まさに歩みはじめました。

昭和に入り、交通の便がよい強羅は旅館や企業の保養施設が多く建設され、箱根を代表する温泉場となりました。

強羅の歴史現在の強羅

post: 2012年2月26日 10:09 AM
強羅の歴史を振り返ると、強羅の発展は西欧の優れた文化を取り入れ、近代的にかつ自然の恵みである温泉をうまく調和し取り入れ、発展してきました。それは今日の強羅においてもその面影が残りつつ、近年では交通の利便性から観光の拠点としてさらに発展してきました。



箱根大文字焼きの始まり

箱根登山鉄道の強羅駅を降り立つと正面の山に見える『大』の字は、毎年8月16日夜、行われる強羅温泉最大行事である「強羅大文字焼」の『大』の字です。この山は通称「大文字山」と呼ばれ、正しくは箱根外輪山の一つ標高924mの明星ヶ岳です。


強羅が別荘地として分譲が始まり、箱根登山鉄道が開通後の大正10年から大文字焼が始まりました。小田原電気鉄道(株)が中心となり、別荘所有の財界人、地元宮城野の有志らによって考えられ、強羅で夏を過ごす避暑客を慰め、同時に地元の旧盆の送り火を兼ねて今もなお盛大に行われています。またに強羅は『大』の字と共に歩んできました。


大文字焼きは宮城野青年団の若者によって準備、行われています。2ヶ月も前より炎天下の山腹において刈取乾燥された篠竹の束を350束作ります。『大』の字の輪郭に沿って約1.5m間隔に立て、一すじの花火を合図に点火され、点が線となり字となって皆様の眼前に、『大』の字が浮かび上がります。

『大』の字に焼かれた山脈は、一年を通して見ることができ、強羅のシンボルとして強羅の街を見守ってくれています。



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