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強羅の歴史強羅のあゆみ

post: 2012年2月26日 12:09 PM

明治21年に最初の開発がなされてから20年余り、現在の強羅の町並みに大きな影響を残している、温泉付別荘地としての土地分譲は明治45年に小田原電気鉄道(株)(現在の箱根登山鉄道(株))によって始まりました。



大正時代の強羅全景 

箱根登山鉄道の開通を含む別荘地開発は、当時の財界人の一人である三井物産の創立者である益田 孝氏が開発に早くから係っていると言われております。

現在の強羅の強羅公園を中心とした町並みはこの別荘地分譲によって作られたもので、この町並みは益田孝氏自身の何度もの欧米視察により身についた自然主義感が大きく影響し、実質的な設計は海外の事情に明るい益田孝氏の末弟の益田英作氏と強羅公園を設計した一色七五郎氏であると考えられています。住宅地の中心に公園を配置するこのような町並みはヨーロッパにおいては19世紀の半ば以降盛んになり、日本では明治40年頃から見受けられ、このような強羅の開発は日本の中でも最も早い一例に数えることができると言われております。

分譲された土地は小田原電気鉄道が所有する36万8,000坪余りの内、約4割の15万坪の広さをもっていました。分譲地は現在のケーブルカー線の南側(左側)で、基盤目状に整然と区画された分譲地は148画と分かれ、1区画毎に温泉と水道付で売り出されていました。1区画の大きさは最高1,128坪、最低78坪、平均400〜500坪でありました。




購入者は益田氏、小田原電気鉄道(株)の当時の社長であった草郷清四郎氏の二人を中心に、それらの人脈的な繋がりで構成されており、当時の政財界を代表する人々が別荘を持ち、別荘地としてのステイタスを高めていました。
強羅別荘地は、当時の数奇者達を中心とした文化村的な性格を帯びていたと言うことができ、その中心は益田氏と草郷氏の二人であったと思われます。

一方、隣地の向山(ケーブルカー線北側(右側))も宮城野村の共有地でありましたが、明治38年頃全域を村民に無償で割地して分割し、各自の所有としました。その後、大正8年堤康次郎氏が約10万坪買収し、翌9年に箱根土地(株)を設立し、別荘地として分譲されました。この二つの別荘分譲がまさに現在の強羅の街並みの基礎と言えるでしょう。



以下に当時の代表的な所有者と別荘について紹介いたします。

益田 孝
三井物産会社の創立者であり、小田原電気鉄道(株)(現在の箱根登山鉄道(株))の登山線の敷設、強羅別荘地開発という大事業に尽力を尽くしました。また当時の別荘購入者は益田孝氏を中心とした人脈で構成されていました。

白雲洞 
近代三大茶人としても有名な益田孝氏によって作られ、当時、近代数奇者茶人の間に流行した『田舎屋の席』の貴重な作例で、山村農村の古材の持ち味を生かしながら、八畳敷の茶室を構成しています。現在は強羅公園の中にあり見学することができます。また、平成13年には国登録有形文化財に指定されました。

藤山雷太
藤山雷太氏は慶応義塾で福沢諭吉に学び、卒業後、26歳の若さで故郷長崎県会議員になりました。その後、実業界に転じ三井銀行を始め、芝浦製作所長、王子製紙専務、大日本精糖社長に就任しました。のちには保険、銀行、鉄道などの事業にも手を広げ、やがて日本商工会議所初代会頭を勤めた財界の大物でした。

神山荘玄関
彼がこの地に別荘を構えたのは、大正10年頃のことです。
木造平屋建てで懸造り、庭園は一色七五郎氏の設計と伝えられています。建物は洋館とかやぶき屋根の日本家屋とが一緒になった構造で、玄関の右側は洋館として食堂、応接室がありました。左側の日本家屋は高低のある地形を生かし、一番奥に『上の間』、一段下がって『中の間』、さらに下がって数奇屋風の『花の間』を配し、それぞれを廊下で結ぶ構造となっていました。雷太氏の死後、息子愛一郎氏の所有となりましたが、世界救世教教祖岡田茂吉氏によって大切に保存されております。また、平成13年には国登録有形文化財に指定されました。

岩崎康弥
岩崎康弥氏は三菱会社初代社長岩崎弥太郎氏の三男です。英国に留学後、東京毛布(株)取締役を務めました。彼が強羅分譲地を購入(七区画分)したのは大正4年からで、まもなく木造2階建ての日本家屋を別荘として建築しました。康弥氏自身、避暑によくこの別荘を利用しており、また昭和3年夏に避暑のためにここに岩崎別荘に滞在した閑院宮殿下は強羅を大変お気に入り、岩崎邸の敷地半分を譲り受け、同5年に別荘を建築しております。

岩崎康弥荘別邸 
建物は玄関脇に洋間を置き、中庭を口ノ字の配置が取られています。座敷は南側に2棟置かれ、書院風の趣がありました。昭和23年、鈴木家がこの岩崎別荘を買収し、翌24年に強羅環翠楼(旅館)として開業いたしました。東側庭園に面した2階建て本館部分は岩崎邸当時の建物で、当時の面影が偲ばれます。

閑院宮載仁親王
閑院宮は、江戸期作られた宮家で、四宮家の一つです。
明治以降に創られた多くの宮家とは違い深い由緒を持っています。しかし、戦後に皇籍を離れ、さらに昭和63年に7代の春仁氏が長逝され、跡を継ぐ男子がなく家名は途絶えました。閑院宮載仁親王は、伏見家に生まれ、明治5年に閑院宮後嗣となり同家を再興いたしました。大正元年に陸軍騎兵隊の大将、同8年には元帥となり、昭和6年から15年にかけて陸軍参謀総長を務めておられます。

閑院宮載仁親王の本邸は東京の永田町にあり、別邸として小田原の天神山に広壮な洋館を建てております。その後、昭和3年に避暑で強羅の岩崎別荘に来て、その縁で岩崎康弥氏から敷地を譲り受けて工事を開始し、昭和5年に別荘が完成しました。設計は陸軍技師柳井平八で施工は松村組が担当したと言われております。

建物は"ハーフティンバー"と言われる木造の梁や柱が外観に出ている西洋の木造建築で、華麗なる外観を持つ洋館です。現在は(株)強羅花壇の所有で、懐石料理『花壇』として営業し、当時の雰囲気を偲ばせています。

福原有信
福原有信氏は資生堂の創業者で、漢方医の祖父の影響を受け、17才のときに江戸に出て医学を修めました。海軍病院薬局長を経て、資生堂薬舗会社を開業しました。
一方で、帝国生命保険の社長として保険思想の普及と事業拡大にも貢献しました。

福原家別邸は有信氏の三男信三氏(資生堂初代社長)が、父のために世界的に有名な建築家フランク・L・ライト(旧帝国ホテル設計者)に設計依頼をし、竣工されました。フランク・L・ライトは、その生涯に800件以上という数の設計を残していますが、母国アメリカ合衆国以外での業績が極めて少なく、計画案に終わった設計を含めても、その数は32件です。

しかも実現した建築となると、カナダに3件、日本に6件のわずか9件を残しているのみなのです。カナダでの実績が今や現存していませんので、日本はアメリカ以外でライトの作品に触れることのできる唯一の国ということになります。

ライト氏自信も建築中の強羅に足を運び、直接施工管理にあたりました。別荘は1921年(大正10年)頃に建てられたと言われており、ゲストハウスとしても利用されていました。しかしながら直後の1923年9月関東大震災に見舞われ、崩壊、消滅してしまいました。震災当日、有信氏は別荘で静養中でしたが、手を一部負傷したが無事であったことが確認されております。ライト設計の別荘はわずか2、3年で短命であったわけですが、現在も現存していれば地元強羅においても大きな観光財産となったに違いありません。

斉藤茂吉
斉藤茂吉氏は山形県金瓶村、現在の上山市出身の医師で歌人です。
「アララギ」創刊の中心メンバーで、31歳で「赤光」を出版、一躍注目を浴びました。医師で評論家の茂太氏は長男、作家の北杜夫氏は次男です。

別荘は現存しておりませんが、自ら箱根山荘の勉強部屋と称した書斎『童馬山房書屋』は斉藤茂吉氏の生誕の地山形県上山市の『斉藤茂吉記念館』に移設され、当時を偲ばせてくれます。また茂吉氏自身も夏は強羅に滞在し、執筆活動は勿論、地元の人々との交流も盛んであったようです。箱根で詠まれた歌は1,200首にも及び、その中の秀歌1首が強羅公園内に碑として建立されております。刻まれている筆跡は茂吉自身の直筆です。




この他にも福沢桃介氏、星 一氏、梅岡源太郎氏、志賀直温氏、久米民之助氏、三井高善氏など当時の財界のそうそうたるメンバーが購入者として名を残しております。

また強羅地域の開発も
• 大正3年 強羅園(現在の強羅公園)の開園
• 大正8年 箱根登山鉄道開通
• 大正10年 ケーブル線開通

と整備され、一大温泉郷として形成されました。


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