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強羅の歴史強羅の夜明け

post: 2012年2月26日 01:09 PM
"強羅"という地名を初めて見た時、皆様はすぐに"ごうら"と読めましたか?

初めてこの地名を目にした人は"きょうら"とか、「一体なんて読めばいいの?」と聞かれることがよくあります。慣れ親しんでいる私たちには普通ですが、大変めずらしい地名であることには変わりありません。この"強羅"という地名はどのようにして付けられたのでしょうか?




"強羅"の地名の由来は次のような説が伝えられています。

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早雲地獄からの土石流が崩れ落ちた斜面上の地形であるから大きな石がゴロゴロとした景観からゴロゴロが訛ってゴーラになった説

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強羅は原野に無数の大石が目立って散在しているので、梵語の「石の地獄」という意味のあることば「ゴーラ」からつけられた説

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強羅の地盤は非常に固く、亀の甲羅のようであるというところから甲羅が訛ってゴウラになった説



などいろいろな説が伝えられておりますが、どれが正しいのかは定かではありません。
しかし、どれもこの強羅の地盤が固く、岩が多いという地形の特徴を表しています。この地形の形成は神山噴火初期の土石流堆積物の上に火山性堆積物、火山灰、早雲山からの泥流堆積物が重なり形成されております。このような火山性堆積物に覆われた原野に人間の手が加えられ開発が始まりました。




ではこのような荒地に実際に開発が始まったのはいつのころからでしょうか?もともと強羅は当時の宮城野村の所有地で明治21年に底倉(宮ノ下)の梅屋旅館、鈴木麻牧太郎氏に売却されました。鈴木氏に売却された土地は現在のケーブルカー線の南側(左側)で、明治44年小田原電気鉄道(株)(現在の箱根登山鉄道(株))に譲渡するまでの間、小田原電気鉄道沿革概要によると

• 平松甚四郎(東京都日本橋区)
• 山脇 善助(東京都京橋区)
• 香川 泰一(東京都小石川区)
• 高橋 秀松ほか20名共有と所有者が変わっていきました。


鈴木氏に売却された頃の強羅の様子は史跡などの名所は特になく、山桜などの潅木林、山百合などが生い茂る雑木林であり、巨岩がかしこに見られる土地でありました。
農地として利用するには程遠く、現在のケーブルカー線の北側(右側)は向山と称し、宮城野村の人々が茅場として出入りしていたぐらいであろうと言われております。
開発など、全く手が付けられておらず、平松氏所有時代に早雲山噴煙口から上強羅(現在の早雲山駅付近)へ温泉を引湯したのが唯一の開発といえるものと言われています。




その後この荒地強羅の将来性に着目し、強羅開発に心血を注ごうと人物が現れました。
それが東京で酒問屋を営んでいた山脇善助氏です。山脇氏は宮城野−強羅−早雲山をつなぐ道路の開拓、早雲山より温泉を引いて大浴場を建設して、この地を一大温泉郷にするという壮大な計画を立てて工事に着手しました。
大掛かりな工事でしたので、当時の宮城野は工事人や職人が多く入り込んでかなりの賑わいであったと言われております。しかし、長く資金が続かず、二年ほどで工事は中止されました。
残念ながら山脇氏の壮大な計画は途中で敢え無く中止となりました。しかし前人未到の強羅開発の扉を開いた、氏の勇気と情熱は、現在の強羅の礎になっていると思います。



山脇氏の計画はその後、香川氏、高橋氏他に受け継がれて、早雲山や大涌谷からの引き湯、旅館の開業、宮城野−強羅−早雲山をつなぐ道路の開通などで温泉郷としての土台が作られ、明治45年の小田原電気鉄道の温泉付別荘地としての土地分譲開発へ続きました。

この明治21年から明治44年までが強羅開発のはじまりで、
まさに"強羅の夜明け"といって過言では無いでしょう。


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